翔オヤヂ

僕が初めてアートイベントに出た場所は、確か足守の方だったと思う。
その当時26歳くらい。陶器の卸商の会社で必死で仕事を覚えていた。

ある日そこの先輩が、『田渕くんはいつ作品を発表するの?』と聞いてきた。
その人に作品を見せたこともないし、特に絵を描くとかも言ってなかった。
そもそも作品と言えるようなものを作ってさえいなかった。

むしろその当時は『一生絵を描かない』と決めていたくらいだ。
最初に勤めたデザイン事務所で大挫折し、そこの社長から2度とデザイン業務に関わりませんという誓約書まで書かされたからだ。自分にはクリエイティブな才能はないし、関わることも許されないと考えていた。
だからその先輩に関しては、今でも不思議な声かけだった。

『発表すればいいやん。うちの旦那も陶器やってるんやで。隣で出したら?』
本人は岡山弁と言ってたけど、関西弁にしか聞こえない話し言葉で先輩は僕をイラスト活動の世界へ送り出した。
足守のイベントで、その先輩の旦那さんの横でポストカード数点を出したのが最初の舞台だ。
展示の什器は勤め先の倉庫から適当な台を借りて出した。
その一枚を買ってくれたお客さんは確か高校生だった気がする。

その後、1人で岡山・香川のいろんなイベントに出まくっていった。
当時は岡山・香川でもいろんなイベントがほとんど毎月どこかでやっていて、情報を聞きつけては出店していた。
そのイベントの一つが『おひさまアートバザール』だ。
10年目で幕を閉じた伝説のイベントで、最後の2年間はチラシを担当させてもらった。
ここでいろんな作家さんに出会った。その1人が『翔オヤヂ』だ。
体が大きく声もデカいけど、酒が全然呑めない。
オヤヂもいろんな仕事、人生を経験して木工作家にたどり着いた。

親子ほど歳が違う僕を『ツレ』と呼ぶ翔オヤヂから什器を買ったり、額を買ったりした。
友達が結婚した時は、特注で積み木セットを作ってもらい、それに僕が絵を描いてウェルカムボードにしてプレゼントした。
また、猫キャラクターのカード立てをいくつも作ってもらった。
僕の人生もあれこれあったけど、オヤヂの人生もかなり劇的だ。
それはテレビとかでも放映されたので、知りたい人は『翔木堂、人生の楽園』で検索してほしい。

オヤヂは僕の人生をだいたい知ってるので、僕が実家の製本業を継ごうとしてたことも知ってる。
その時が死ぬほどつらくて何回かオヤヂに泣き言をいったけど、オヤヂはいろいろ励ましてくれた。
しかし結局続かずに高梁に僕は移住した。その事をオヤヂは知ってるけど、本人の前でまだちゃんと報告できてない。

3回目の元気のでるカレンダー2021 原画展は無事終了した。
今回の原画展にも初日に駆けつけてくれたのは翔オヤヂだ。
『おめー。いつ来るんなら』と電話までしてくれた。申し訳ない。

昔はお互いのブログで散々コメントの応酬をし合って遊んでくれたオヤヂ。
今はインスタで応援し続けてくれている。
今度会ったらあれこれ文句言われると思うけど、必ずまた会わないといけない。

初日に駆けつけたわいの写真を合成でもええからアップせんかい。
と何度もツッコミを入れてもらってるので、渾身の合成写真を近日中にアップして、オヤヂへの感謝とさせていただきたいものである。

オヤヂ。おめーもコロナに負けんなよ。

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