『セイギのミカタ』を読んで(朗読)

小3の長女にこが、今年選んだ読書感想文の本は「セイギのミカタ」(佐藤まどか作 イシヤマアズサ絵)だった。
夜寝る前に、愛子さんに読んでもらっていたのを隣りで聞いているうちに話に引き込まれ、最後まで聴いてしまった。
2日間に渡る夜の朗読の感想をここに記したい。



あらすじ
赤面症の木下は、クラスメイトである大我にその事をからかわれ、それが日常化していく。
そんなある日、もう1人のクラスメイト周一がやってきて大我を注意する。
一見木下にとって「セイギのミカタ」である周一だが、木下はその存在に頭を悩ませていく。

感想
大人世界にも通じるリアルな人間関係と心理描写。人それぞれの価値観の違いに気づかされる傑作。

その他
この物語は「いじめ」の見えにくさをテーマにしたお話だ。
それは日常の中にいくらでもある。
ちょっとした冗談がエスカレートしていって、気づかないうちに人を傷つける事になってしまう。
「言った側にその気がなくても、言われた側がいじめだと思ったら、それはいじめである」
という言葉がある。
3人の登場人物の中で、この事をはっきり示しているのが「セイギのミカタ」である周一だ。彼は被害者である木下を守るために発言するが、肝心の木下は自分が被害者だと認識していない。
ここが物語のポイントだと思った。
木下は自分がいじめられていると認識していない。というか、認識したくないのである。
なぜなら、自分がいじめられていると認めてしまったら、それまで保っていたものが崩れ、みじめな気分になってしまうからだ。
彼は、大我の言動は嫌だけど、黙ってやり過ごしていればそのうち静まるだろうと考えている。
むしろ、そのことをはっきり「いじめ」だと示そうとする周一を煙たがるのだ。
ここがリアルだなと感じた。
これは、だれだってそう感じるんじゃないだろうか。

また、大我自身が自分の言動がいじめであると認識していないところもポイントだ。
彼は木下をいじめてやろうとは思っていない。
笑いを取るためにイジって遊んでいるのである。
読者は木下の視点で大我の言動に触れるので、大我はひどいし許せないと感じる。しかし、もしも読者が大我の視点やその周りにいるクラスメイトの視点に立てば、この2人は、ただふざけあっているように見えてしまうに違いない。
お笑いとかで言う、「イジられている」というやつだ。
しかし、「イジる」の「イジ」は「いじめ」の「いじ」であると理解している人は少ない。
「いじめ」は許されないが、「イジる」のは許されると思っている人が今は多い。
大我はそう思っているし、ほとんどのクラスメイトもそう思っている。
しかし言葉が相手に与える快・不快は紙一重で、一歩間違ったらすぐに人を傷つける事になってしまう。
それは親しい間柄でもそうだ。

おかしなことかもしれないけど、人は基本的に事を荒立てたくない。
だから、「このイジりはちょっと行き過ぎだけど、まぁまぁ。空気壊したくないし。」というのが、たぶん木下を含め、クラスメイト全員の感覚なのだ。
ここに切り込んでくるのが周一だ。彼はいわゆる「天然キャラ」でもあり、自分が思った事、感じた事に真正面で向き合ってくる。が、変な話だが、この周一の行動は現実世界では「空気が読めてないやつ」と見られがちだ。実際、物語の中ではそう扱われている。そして今度は周一自身がターゲットになっていくのだ。
この流れに、最初は単に周一を煙たがっていただけの木下の心が揺さぶられていく。
さて、この人間関係の中で木下はどう成長していくのか。物語はどんな結末に向かっていくのか。
それは読んでのお楽しみ。



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