山田方谷

先日、市役所で「方谷生どら」というどら焼きを買った。
普通のどら焼きと違って、ふんわりとした黄色い生地にあんこと生クリームが挟まれた、大きなどら焼きだった。
子ども達も、ぱくぱくと食べた。

高梁市は、長年、山田方谷のPRに力を入れている。
目指す所は、方谷の大河ドラマ化であるそうだ。

山田方谷は、幕末に生きた人であり、学者・教育者としてその生涯を捧げた人である。
なぜ、現代に至るまでその名が残っているかと言えば、当時破産寸前であった備中松山藩(現:高梁市)の経済を立て直したというエピソードがあるからである。
藩の膨大な借金を整理して明確な返済計画を示し、同時に藩経済の仕組みを刷新して産業を興し、7年で借金と同等の利益を藩にもたらすに至る。
さらには、藩風も刷新し、来る時代に備えて、藩兵の強化や人材育成も行った。

僕が、山田方谷のこういった実績を見て注目したのは、方谷と藩主:板倉勝静との関係である。
方谷は、藩政に参加する以前は、名の通った教育者であり、藩主勝静の教育にも関わっていた。
方谷を藩政改革の担い手に抜擢したのは、勝静であり、その施策を全面的にサポートした。
方谷の施策は、ただ、その場しのぎのものではなく、次の時代に備えた目線ですべて施されており、特に人材育成に力が注がれている。
幕末、日本のあちこちで藩政改革は行われており、時代そのものが明治に向けて大転換していくが、方谷が改革を行ったのは、ペリー来航の前後であり、時代としてはまだそこまで沸騰していない時である。
この時期というのは、まだまだ幕府の力が強く、どちらかといえば、大胆な改革はしにくい時期である。徳川体勢のままで、まだ行けるとほとんどの人が信じていた時に、その体勢を脱却するかのような前衛的な施策を方谷は行っている。
雑に言えば、方谷が行った経済政策というのは、地場産業を興して、藩が直接取引して儲けるというやり方で、もっと雑に言うと、藩にきちんと利益が残る仕組みに切替えたのである。方谷は、ただ藩が儲かるためにこれをしているのではなく、次の施策(藩風刷新、人材育成)に備えた準備金を作るためにしているのである。
これは幕府からすれば生意気(反乱のもと)と見なされる。この当時の諸藩は、徳川の手下意識がまだ大きく、常にそのご機嫌を伺い、生意気なことをしてはいけない。こういった生意気なこと(コメ経済を脱し、冨を貯える仕組みをつくること)をしていたのは長州藩と薩摩藩などである。要は、前衛的だったのである。
この革新的改革が見事に実行できたのは、もちろん、方谷の覚悟と実行力があってのことだが、それ以上に、トップである勝静が方谷に対して完全支持を示し、勝静自身が先頭に立って周囲に範を示したという事が大きいだろう。それがなければ、このような改革は周囲の反感を買い、方谷は失脚させられるか、殺されただろう。

方谷が実行した改革の内容というのは、そこまで珍しいものではない。
彼が凄いのは、先の先まで見据えた先見性と、まだ時代が沸騰していない頃において、最先端を知っていた情報収集能力と分析力。そして「人の救済・人の育成」という目的から決して外れなかった意志の強さだと思う。

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