千住 博 展

日曜日は市役所の時間外窓口の仕事をした。
その後、午後から愛子さんと合流し、成羽美術館にて『千住 博』展を観た。

吉備ケーブルテレビで特集が組まれていて、それを観たとき
「At World’s End #18」という絵が紹介されていた。
闇の中に巨大な崖が浮かび上がり、その光るような岩の質感が奈落へと落ち込んでいくような、不思議な絵だった。
その絵を見たとき、それが手描きなのか、コラージュのようなテクスチャーを加えた作品なのか分からなかった。
崖の岩肌の描き込みが、とても肉筆とは信じられないような細かさだったからだ。
それを確かめるために足を運んだ。

はたして、美術館にて実際に「At World’s End #18」の前に立って見つめてみたが、よく解らなかった。
ただ圧倒的な崖が浮かび上がっているだけで、どうやってそれを表現しているのか解らなかった。

今回の展覧会でメインとして展示されているのは、滝のモチーフである。
その中でも印象的なのは、「四季滝図」だった。
これも、風景としての滝ではなく、闇の中にただ水の流れのみが浮かび上がっているのだが、その躍動的な水の動きにも関わらず、この絵からは音を感じない。上から下へと、膨大なエネルギーの流れが表現されているにも関わらず、その空間には静寂が広がっているのだ。
展示会での後半の絵は、このような作品が多い。
ダイナミックなモチーフが描かれながらも、画面からは、本来見えることのない、人間の感情の深淵を感じる。

前半の絵は、これとは逆に、一種の音律を捉えたような作品がいくつかある。
「朝の山水」という作品では、金色の空と太陽の静けさ、そこを飛ぶ二羽の鳥の間。画面の下で風に揺れる植物の流れが、何ともいえない音楽を絵に添えているような印象を受ける。
いくつかの作品で登場する、薄い三日月もそうだ。
前半の作品は、溢れるような色彩で音楽を奏でるようなものが多い。しかし、絵のすべてが、1つ1つの対象の、その本質的な形や動きだけを捉えたものの集まりなので、感じる音楽というのも、オーケストラのようなものではなく、日本的な音だった。

火山の風景を描いた作品辺りから、音が消える。
そこからは無音の風景が広がるような作品が多かった。


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