展示会の風景 その11

僕が少林寺拳法を始めたのはたぶん、28歳くらいの頃だ。結婚したときだったと思う。
嫁さんに道院を紹介してもらった。うちの嫁さんは少林寺拳法2段である。
その頃の僕はなんとかして自分を変えたかった。
人間的に良くなっていきたいのに、そうならない人生の連続だった。
司馬遼太郎の本が好きで、特に幕末の話が好きだったけど、それらを読むにつけ、

『なんで昔の日本人はこんなにすごかったんだろう』

と思っていた。何が違うんだろう。いろいろ考えた結果、それは教育だという結論に達した。
そこで四書五経や国学について調べたりした。
次に重要だと思ったのが武道である。
この学問と武道の絶妙なバランスが当時の日本人の精神を洗練させ、未曾有の国難に立ち向かわせる原動力となったのではないかと思っている。

そこで自分も武道をやってみようと思ったのである。
実は小学校6年生まで空手を習っていたけど、改めて空手に触れようとは思わなかった。
空手は本当は立派な武道だけど、僕の習っていたものはやっぱり試合とか、わかりやすい力の強さに偏っていたからだ。はっきり言えばそんなに好きじゃなかった。
僕は試合がどうこうとか、瓦が何枚割れるとかを越えたものを知りたかったので、昔の柔術や古武道、合気道などに興味を持った。
しかし、合気道とかの道場をぜんぜん知らなかったのと、その当時嫁さんが少林寺拳法をやっていて興味があったのでそっちを見学に行った。
そして今の先生を紹介してもらったのだ。

見学してみると、まず仏教を基本とした教えであるというところを知り、これはいいなと思った。そして、練習方法も理にかなっていたので、これなら続けられると思い入門した。

それから8年。なんとか初段までは行けたのだが、林製本に入社してから残業続きでほとんど練習にいけなくなった。
それと重なって先生がご自身の母上の介護をしなくてはならなくなり、一旦道院を閉めたのだった。
そして程なくしてコロナである。僕自身、遠い高梁の地へ移住してしまった。
当分、道院へは行かれないが、高梁の広い野原で基本の練習や錫杖の練習をしたりしている。

少林寺拳法は力の強さや試合云々には重きを置かない武道である。
自分がどう生きるのか。人にどう接するのか。少林寺拳法で培ったものを社会に還元できるかどうかが重要とされている。
それを習って活かすも殺すも自分次第なのであり、そういう意味では厳しい教えであると言える。

展示会にはそんな少林寺拳法の先輩方も駆けつけてくださった。
先輩達は常に明るい。そして親切で優しい。
生きていればみんなそれぞれ悩みがあるし、大変な事もある。しかし、常に前を向く努力をする。礼を重んじて人に優しくする。そういった少林寺拳法の生き方を今も貫く先輩方である。

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